旧熊野神社 社殿

御祭神

速玉之男命(はやたまのおのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)

由緒・沿革

平城天皇の御代大同元年(806年)神託ありて東国開発の守護神として、紀国熊野に坐す大神の御分霊を三川浦(現:旭市三川)に奉祀しました。
降って村上天皇の御代天暦九乙卯年(955年)、再び大神様の御神託あって仁良(現:香取市)を経て、同年の旧暦9月5日に当所(現:旭市清和乙)に奉斎致しました。
治承四年(1180年)、源頼朝の挙兵に応じた千葉介常胤は深く当社を信仰し、出陣にあたり戦勝を祈願し、度々の軍功により下総の太守に任ぜられるや、破損した当社の再建を鎌倉幕府に請願しました。
頼朝公は、当社の御神威の赫赫たるをみて、建久元年(1190年)7月に松澤荘一円を御神領として奉納し社殿を造営致しました。

次いで、後鳥羽天皇の御代建久5年(1194年)9月5日、畏くも勅使下り「正一位熊野三所大権現」の称号を贈られ、以来神官42名を置き祭典荘厳を極めたとされます。
千葉氏は、当社を祈願所として数々の神宝を寄進し、更に横領された神領を奪回し社殿の造営に尽力しました。以来千葉氏の心物両面にわたる崇敬により神文を九曜と定めることとなりました。

降って徳川氏により江戸に幕府が開かれ天正十九年(1592年)から安政二年(1855年)に至る間、家康公を始め十代の家治公まで歴代の将軍より神領並びに宝物を寄進されるなど宏壮なる社殿と相まって東総屈指の大社として、また松沢の権現様として世に親しまれてきました。

明治六年(1873年)、郷社に列し昭和五十三年(1978年)6月千葉県神社庁より規範神社に指定されました。
なお、当社は延宝八年(1680年)、昭和四十三年(1968年)に不慮の火災により全焼し、現在の社殿は昭和四十四年(1969年)にその他の建造物は、昭和五十五年(1980年)までに再建され、公園等の整備が行われ現在に至っています。

12年に一度の卯年には、熊野神社の御神幸が三川浦まで行われます。